旅人マイケルオズのニッポンひとり旅語り

全都道府県を巡り歩いた旅人が、ひとり旅で訪れた旅先の素晴らしさ、楽しいエピソードなどを紹介し、併せて旅の情報やノウハウも語っています

恐怖と感動が交錯する「かずら橋」~徳島県三好市祖谷

土讃線四国山地に分け入り、大歩危駅からバスでさらに山深く入ったところ、切り立った山々の間を祖谷川の渓谷が流れています。この深い谷に架けられているのが、日本三奇橋のひとつ「かずら橋」です。

シラクチカズラという、つる性の植物で編み上げたかずら橋は、山峡に暮らす人々の生活の知恵が生み出した結晶と言えます。平家の落人伝説では、追っ手から逃れられるよう、切り落とすことができる橋を架けたのだとされています。

水面からの高さは14メートルあり、普通の橋を渡っていても怖さを感じる高所恐怖症の身とすれば、かずら橋は木材をカズラで編み上げただけの簡素な造り、しかも足元がスカスカで川面が見えるというのは恐怖しかありません(苦笑)

それでも、ここまで来たのに渡らないのももったいないと思い、おそるおそる、底板を慎重に踏みながら進んでいきました。他の人がチョット動くだけで、ユラユラと揺れるかずら橋。全長45メートルの橋がとても長く感じられました。

渡っている最中は、無我夢中というか必死だったので、周りを見る余裕などありませんでしたが、かずら橋周辺は祖谷峡の見事な景観が広がる絶景。観光地化されている面は否めませんが、第一級の秘境であることには間違いありません。

 

三好市の観光サイトでのかずら橋紹介です

miyoshi-tourism.jp

 

 

るるぶ徳島 鳴門 祖谷渓 (るるぶ情報版地域)

るるぶ徳島 鳴門 祖谷渓 (るるぶ情報版地域)

  • ジェイティビィパブリッシング
Amazon

 

 

念願だった寝台特急「北斗星」で札幌へ向かう~上野から札幌まで

北海道新幹線の開業に伴い、2015年に運転が終了した寝台特急北斗星は、ひとり旅を始めた頃から「一度はぜひ乗りたい」と思っていた列車です。それが2006年春、ついに実現しました。

B寝台のチケットを取るだけでも大変だった北斗星号ですが、策を練って駅窓口で購入した結果、なんと最も豪華な「A寝台ロイヤル個室」のプラチナチケットを入手できたのです。その経過は以前のブログをご覧いただけばと思います。

mykeloz-hitoritabi.hatenablog.com

北斗星1号は16時50分に上野駅を出発。一人で過ごすには贅沢過ぎるロイヤルの空間は、ベッドだけでなく、シャワー、トイレも完備され、ルームサービスまであって、まさに夢のような時間を過ごさせてもらったのです。

夕食はルームサービスでしたが、夜のパブタイムに食堂車「グランシャリオ」へ出向き、夜景を眺めながらワインを傾けるひと時。夢とも幻とも思えるような時間が、いつまでも続けばいいなと、テンションは上がる一方でした。

目が覚めると、北斗星号はすでに青函トンネルを抜け、函館駅に到着していました。その先は、やや二日酔いの頭でぼんやりと北海道の景色を眺めていた記憶があります。ルームサービスの朝食をいただき、間もなく終点の札幌駅に到着します。

本来なら、札幌駅に着いた時からひとり旅が本格的に始まるわけですが、北斗星号に乗るのが最大の目的だったので、下車した時は「もう着いてしまったのか」と寂しさを感じたほど。二度と味わうことができない至福の寝台列車の旅でした。

 

 

会津武士の魂を胸に悲運の最期を遂げた中野竹子~福島県会津若松市

福島県内有数の観光地である会津若松市にある史跡の多くは、幕末から戊辰戦争にゆかりがあります。佐幕に徹したがゆえに、賊軍の汚名をきせられた会津藩の悲しく、つらい歴史を物語るものばかりです。

2013年に新島八重を主人公にした大河ドラマ「八重の桜」が放送されました。ただ会津に住む方々は、幕末維新に活躍した会津の女性というと、新島八重よりも中野竹子を挙げる人が多いそうです。竹子の生き様と死に様が鮮烈だったからでしょう。

竹子は戊辰戦争の際に「娘子隊」という女性の軍隊を率い、新政府軍と戦いました。なぎなたを振るって応戦しましたが、銃弾に倒れてしまいます。死に恥をさらしたくないと、妹に介錯するよう言いつけ、壮絶に散ったのです。

1997年に初めて会津若松を旅行した時、竹子の存在を知りました。彼女が残した辞世の句もののふの 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも」に、会津武士の魂と誇りを感じ、思わず涙ぐんでしまったものです。

大河ドラマ放送の13年に2度目の旅行をし、観光名所からは離れていましたが、中野竹子旬節地の訪問が実現しました。なぎなたを手にする凛々しい竹子の像とともに、あの辞世の句を思い起こし、胸が熱くなりました。

中野竹子会津の女性たちの話は美談として語り継がれていますが、彼女らの悲劇を繰り返してはなりません。激しい戦いが繰り広げられているウクライナに、竹子のような女性が現れないことを願うばかりです。

 

★姉妹ブログ「歴史・人物伝」での中野竹子紹介コラムです

rekishi-jinbutu.hatenablog.com

いつまでも見続けていたい海と共に生活する人々~広島県尾道市

私のひとり旅は長くても3泊4日で、仕事の状況もあり、たいがい1泊2日という日程を組まざるを得ません。そのため、旅先の一つの目的地でのんびり過ごすことはめったにないのです。ところが、広島県尾道市だけは違っていました。

尾道市は、映画監督の大林宣彦さんが「尾道三部作」と銘打った青春映画をロケした地で、大林さん自身の出身地でもある尾道の街並みや景観が、名画のバックグラウンドとして描かれています。その一つが市街地と対岸の向島を結ぶ渡船です。

橋で結ばれているとはいえ、徒歩や自転車で通学する学生たちや高齢者らの大切な生活の足となっているのが渡船。人々や車両を乗せては出航し、別の船が帰港すると人々は下船し、それぞれの目的地へ向かう・・・その繰り返しです。

尾道三部作」でも、渡船のシーンが印象的に映し出されており、桟橋でぼんやりと渡船を眺めていると、まるで大林ワールドに入ってしまったかのような雰囲気に。時間を忘れて、ただひたすらに光景を眺めていたものです。

尾道での2日間、何回か渡船に乗りましたが、印象に残っている出来事があります。市街地に魚介類を売りに来る「晩寄」という屋台を引く老夫婦がいました。二人が渡船に乗り込んだので、私もついふらふらと乗ってしまいました(笑)

 

 

北海道の大自然を縫って走る今は亡きローカル線~北海道ちほく高原鉄道

北海道の帯広地方とオホーツク地方を結んでいた第三セクターのローカル線「ちほく高原鉄道」が2006年に廃止されてから15年が経ちました。その前年、この鉄道に乗るためだけの目的でひとり旅をしたのです。

始発駅の池田駅根室本線から乗り換え、銀河鉄道999をイメージしたラッピング列車に乗り込んだ時、久々の列車旅にワクワクしました。オホーツク側の起点である北見駅まで往復、途中下車を繰り返しながら2日かけて巡りました。

とくに印象に残っているのは、分水嶺に近く、秘境駅としても人気が高かった川上駅。人家も何にもない山間の中に、ポツンと駅舎が建っている風景は旅情をかきたてたものです。列車待ちの約1時間半、駅舎や周辺でのんびり過ごしました。

川上駅は国道沿いにあるため、当時から車でのアクセスの方が非常に便利でした。木造の駅舎が撤去され、鉄路が廃止された駅に、あの時の旅情を求めるのは難しいかもしれません。それでも、この地のロケーションは抜群です。

このほか、駅舎としても文化財的価値があった上利別駅や、原野にホームだけ設けられていた塩幌駅など思い出は尽きませんが、廃止15年も経てば、鉄道の痕跡もどんどん無くなってしまうでしょう。それでも、ぜひ再来訪してみたいものです。

 

原爆の被害を科学的に研究した永井隆博士の住居「如来堂」~長崎県長崎市

長崎で原爆に遭い、被爆者として被害を研究してきた永井隆博士の名前を知ったのは、恥ずかしながらテレビの人物伝ドキュメント番組でした。高齢の方ですと、映画「長崎の鐘」のモデルになった人としてご存知ではないでしょうか。

永井博士は、原爆による被害の恐ろしさを情緒的に訴えるのではなく、科学者として分析し、時には原爆症に陥った自らの肉体を実験台として、研究を続けてきました。その拠点が博士の住居で、如来堂」と呼ばれていたのです。

20数年前、長崎を訪れた際、平和祈念公園浦上天主堂などとともに如来堂を見学しました。観光客が素通りしてしまうような住宅地の一角にあるとても小さな木造平屋の建物で、思わず「ここか・・・」とつぶやいたほどです。

原爆で妻を亡くした博士は2人の子供と一緒に暮らしていました。亡くなって半世紀になろうとしていましたが、当時の生活の匂いが残されており、たくさんの著書など偉大な功績を残した方のあまりにも小さな住居に、思わず目頭が熱くなったものです。

近接する永井記念館は児童図書を中心とした図書館でしたが、私の来訪から間もなく、永井隆記念館としてリニューアルされました。サイトを見ると、図書館の機能は残したうえで、永井博士の功績を分かりやすく展示しているようです。

nagaitakashi.nagasakipeace.jp

 

「全国神社お参り旅」義経神社~北海道平取町

今回の「全国神社お参り旅」では、北海道平取町義経神社を参拝いたします。

22日放送の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、悲運の生涯を閉じた源義経が描かれましたが、実は義経は生き延びたという伝説が各地にあります。その一つが平取で、この地にやって来た義経アイヌ人と交流をしたというものです。

御祭神はもちろん源義経。神社創建は江戸時代で、幕府役人だった近藤重蔵義経の御神像をアイヌのリーダーに贈り、アイヌの人々によって守られてきたのが起源といいます。現地では義経伝説が長く伝聞されてきたのでしょう。

私は2010年に旅行した際に立ち寄ったのですが、小ぢんまりした神社だと思っていたら、結構広い境内だったのに驚き、さらに義経だけでなく、母の常盤御前や愛妾の静御前の碑まであり、義経伝説の深い信仰ぶりをうかがわせてくれました。

掛けまくも畏き 伊邪那岐の大神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓へ戸の大神たち
諸々の禍事・罪・穢あらむをば
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
恐み恐みも白す。 ※祓詞