近藤勇を中心にした新選組の歴史を語る中で、常に対比されてしまうのが初代筆頭局長の芹沢鴨です。大河ドラマでは佐藤浩市さんの熱演が光りましたが、昔から映画などでは「歯止めが利かない乱暴者」という人物像で取り上げられてきました。
新選組は、幕府が募集した浪士隊に参加した人たちの中で、江戸に帰らず京都にとどまった芹沢、近藤らの一派を中心に組織されました。京都の治安を守っていた会津藩が、利用価値があると思って「お預かり」という形で組下に入れたのです。
江戸の小さな道場主だった近藤と違い、芹沢の名は尊王攘夷で名高い水戸浪士として知られていました。芹沢は、会津藩に京都残留の嘆願をするなどの交渉に力を尽くしましたが、会津藩も芹沢の出身や経歴を重く見ていたことがうかがえます。
結局、近藤一派によって粛清されてしまいますが、その要因を私なりに考えてみると、近藤に比べるとリーダーとしての資質に欠けていたこと、土方や山南のようなブレインに恵まれなかったことが挙げられます。